桐島、部活やめるってよ

小説原作の映画。
映画の脚本が、蒼穹のファフナーテニプリ
声優をしている喜安浩平さんというのも注目?。
映画の後小説を読んだが、結構違う点があった。
どちらが先でも良いと思うが、内容は映画の方が好み。

違った点

まず、人物同士の相関関係が変わっていた。
物語でしたいことは変わっていないが、
映画にするにあたってよりリアルさのでるように複雑になっている。
小説では、人物ごとのオムニバスとなっており、時系列順に話が進む。
しかし映画では、同じ日を別人物の視点で何度も描き直すことで
話が見えてくるという構成になっていた。

感想 -全体-

すごく面白かった、と同時にものっそい抉られた。
あまりに高校生活がリアルに描かれていて、
誰が見ても必ず自分を移し込んでしまう人物がいるのではなかろうか。
自分がどの立場にいたのか、誰に何を思われていたのか、
憧れていた人は、見えない自分の将来とか。
あの頃の、良さ・苦さ・苦しさ・希望とその反対、そういうのが
ぎっちり箱詰めされ、目の前で広げられている。



以下、映画のネタバレあり



なんつーか、ネタバレが過去の独白みたいになるのな。
この作品だと。ああ恥ずかしいー。

もう、いろんな場所に感情移入してしまって、
帰り道だんだん気持ち悪くなってきた。
学生生活にはクラス・学年内で明らかな身分があって、
誰しもある程度自分の序列を自覚してその中で枠にあった生活をしている。
私は、最下層に位置する根暗で人見知りな人間だったし、
勉強ができその点で誰よりも目立つ位置にいたし、
最悪の人間関係からけがで運良く部活をやめたし
その後の科学部で賞を取ったし
彼女を作る程度にはませていたし
男友達がうまくつくれないくらい幼かった。

そういうの全部奥にしまってあって、それがひっくり返され露呈したような。
あの頃に味わった息苦しさや自由を、あの青臭さを眼前に広げられて
誰が無事でいられようか。
涙がでそうだったけれど、それ以上の抉られようで放心してしまった。

私は自分の存在をできるだけ独力で担保しようとして生きてきた。
反面、本当は拠り所を必死で探していた。
もしかしたら誰でもそうなのかもしれないけど、
とてもアンバランスで位置の定まらない人間だった。
ある意味今でもそういうところはあるのだけど。
桐島は、近辺の人間の立ち位置を保障する機能として重宝されていた。
それが名誉であり恐ろしい束縛であるのは想像に易い。
彼がいなくなったこと自体が、ひとつ羨ましいことだった。
誰だって、たとえ序列最下層の学生だって、消えてしまいたくなる時がある。
消える事の意味は変わるけれど。

桐島が消えて、彼が担保していた序列最上層組は慌てた。
誰も代わりは出来なかったし、不安で苛立って、バランスを崩して行った。
そして最後のシーンでヒロキは自分自身も桐島と同じ場所に立たされた。
その事に気づいた彼は桐島に電話するが誰も出る事無く物語は幕を閉じる。
結局は小さな世界の序列ではある。
でも、その時の自分たちにとってあれほど世界の多くを占める身分もないのだ。
最後の電話は、桐島への理解からくるものか、あるいは彼の復活を望むものなのか。
どちらにしても、彼の帰還も、彼との邂逅も無いまま、話は終わり。

もう一度劇場に足を運びたいのだけど、その勇気が出ない。
これを書くまですら至らなかったわけだし。
だって映画見たのひと月以上前だよ、たぶん。
でも、間違いなく名作だと思うし、抉られるような人にこそ見て欲しい。
あの頃に何かあって当たり前なんだよ。
だから、きっと誰でも、見たら何かしら思うところがあるはず。