徐々に机上の空論

Its all in my head. So I dive in my head, and try to keep on subscribing.

友達とは

 小学校の頃から疑問に思っていたことがある。
「友達ってなんだろう?親友ってなんだろう?どこから友達でどこから親友?どこまでが知り合い?」
 これは学校の帰り道に、「ぼくら親友だよね」と言われたときに分からないと答え、それに続けて言い放った言葉である。ひどい話だ。相手はもう覚えていないことを願うが、親友と言って十二分の存在だし、最古の友人の部類である。今となってはそう思えるし言えるけれど、その時は本心からの疑問としてこれを思っていた。そして今日までその明確な答えが分からずたまに思い出して考えていた。
 夜の考え事の中で、その答えのようなものに行き当たったので大まかにまとめておきたい。この考え方を使えばかなりの高精度に友達かどうかを測れる。しかし注意したいのは、友達かどうかを測る行為自体があまりほめられた行為でないということだ。本来人間関係はある程度あいまいであるべきだし、それを一人の視点から測ることも本当は不可能だからだ。それをふまえた上で、それでもこれをまとめておきたい。別の考え事にこの記事を引用したいからだ。まずは、「友達なら〜だ。」という題から考えていく。

友達なら〜だ。

 ここでは極端な例を扱うことになる。極端だからこそいい。
題1「友達なら、自分が死んだときに悲しんでくれる。(死後覚えていてくれる。)」
 こう言われたとき、恐らくこの文言に対して疑いをもつことは無いだろう。ほとんどの場合はこの題は成り立つ。たしかに極稀に死すら恐れないほどの絆もあるだろう。しかしそもそもそのような絆を勝ち得ていたらこの記事の内容は必要ない。よってこの題自体は真だといって問題ないだろう。
 次にこの題の逆を考える。
題2「自分が死んだときに悲しんでくれる(覚えていてくれる)のは、友達だ。」
 これは文だけでは真とは言えない。家族や恋人など例外は存在する。ただしここで扱いたい最初の問いに書いた人たちを全集合とするなら、これは真になりえる。(もちろん悲しみの度合いによる閾値の変化は存在するけれども。)そして題とその逆が同値となるなら、こちらの題に当てはめて対象をみれば、その人が友達かどうか分かる、という訳である。もちろん、ここで分かるのは「自分が友達だと思っている人」である。ちなみに「表面上に悲しみは表れないが葬式に参列する人」というのももちろん存在する。その場合については、行動>感情であり、行動はより高次であるから悲しんでいる条件は既に満たしたものと考えている。

実際の友達に当てはめる

 実際に自分が死んだときに悲しんだ人を観測すればそれが実際の友達だと言える。まあ死んでいるので確認できない。しかし自分が死んだときに、この人はこう悲しむだろうなあと思うとき、ひっくり返せばそれ自体がその人と作り上げた関係でもあるということだ。深く悲しみを覚えたり、その後もずっと自分のことを忘れずにいてくれる、そう思えるならその人は間違いなく自分にとって大切な人である。

最後に

 こんな方法でしか友達とは?の問いに答えを探せないことには凹んだ。自分が相手を信じているということを受け入れられたら、こんなことしないで済むのだ。しかしひねくれているのだからしょうがない。自分が納得できる方法で自分なりの信頼を示せるならそれでもいいと思うことにした。