遺されること

 飼っていた猫のことから、考えたことを軽くまとめたい。先に亡くなった者があったときの、残された者のことを考える。猫を題材に書くけれども、これは人相手でも変わらないと思っている。同列にされたくない人も少なからずいるだろうが、私が初めて失った愛するものは猫なのだからそこは勘弁して欲しい。
 せっかくなので猫の紹介もしたい。地元に新しくペットショップが開店したときのことだ。動物愛護団体が里親を捜しており、その中から一匹をもらってきた。きっつい顔をしたキジトラの男の子だった。中略。暴れん坊で甘えん坊でさびしがりで太ってて態度がデカくて、かわいかった。私が成人した年に亡くなった。
 亡くなる2ヶ月前にあったのが最期だった。もう一年くらいずっと衰弱していっていたので少しずつ心の準備はするようにしていた。最期に会った時もすごく体調が悪くてろくに動けず口からよだれをたらしていた。ずっと鳴き声も聞かなかったそうだ。そのとき、もうすぐこの子は死ぬんだと思い、夜に泣きながらなでてありがとうと一言言えた。(これは救いだ。)そのときにほんの少し声を出してくれて、弱々しかったけれど、鳴き声を聞くことが出来た。
 猫が死んでから4年経って、今は実家に猫がいないことにも慣れてきた。姿形として視覚的に思い出せる内容もかなり少なくなってきている。しかし、なでたときに喜んでいたこととか、ずっと膝の上に乗られてすごく重かったこととか、そういうのが色濃く残っている。寝起きのまどろみで思い出すと、本当にそこに居るかのように全てを思い出せる。本当に寝ぼけて猫の姿を探すほどに。忘れてしまっているようで全然そんなことはない。むしろ自分の一部になっている。自分の中で生きている、という表現が指し示すことの意味を体で理解し始めた最近である。
 本当は乗り越えたつもりで話をしめようと思っていたけれども、無理だ。書いている中で色々思い出すし、もう居ないことの悲しみとたくさんの感謝でごちゃごちゃになって、鼻の奥がツンとして涙がぼろぼろ落ちてきてしまった。天地明察夏雪ランデブーでもあるけれど、「私より先に死なないでください」という言葉は実はすごく重量がある。大切に人には先立たれたくないな。ほんと。