20240524-2

文章に句読点を付け加えると以下のようになります。

朝、病院へ行き、へその傷を液体窒素で焼きました。

午後の紅茶ミルクティーJava 1.5倍が販売していたので、買って飲みました。

間違えて2個頼んでしまった楽天で頼んだライブブルーレイを1つ返品しました。そのためにコンビニでレターパックプラスを購入し、500円程度の出費を支払いました。しかし、元の値段が6952円だったので、返品した方が損が少なく、気持ち的にも軽いです。無事郵便ポストに投函し、あとは到着すれば返金の処理に入るでしょう。

帰宅後は、ライブブルーレイを見るためにパソコンのセッティングを行いました。それに先立ち、外付けブルーレイドライブと共に出てきたDVDの中身を確認しました。すると、中には9年前の友達のライブの写真が入っていました。これをフォトにアップロードするため、まずリサイズをしたいと思い、PCにリサイズ機能を持ったソフトを用意しました。Windowsストア経由でインストールしたところ、拡張機能をインストールすることができませんでした。アンインストール後に改めてインストールをし、bimpというバッチ処理を登録しました。これにより、写真のサイズを全て縦横50%に設定し、リサイズを一括で行いました。そして、Googleフォトにアップロードし完了しました。

一方で、パワーDVDのバンドル版をインストールすることができず、サイバーリンク車の公式サイトから無償版ソフトをダウンロードしインストールしました。どうやら無償版でも使用可能な機能がそれなりにあるらしいため、これでブルーレイを視聴できることを期待します。USB接続であるが、セルフパワーで動くかどうかの検査をし、無事動いていることを確認しました。ブルーレイを挿入し、POWER DVDで再生できることを確認しました。午前中に1時間程度、昼食後に残りを鑑賞し、無事に楽しい時間を送ることができました。今後もこの無償版を使い続けることができることを期待します。

夜になると、少し暇だとか何かした方がいいとかいう気持ちがなくはないという程度に頭をよぎります。しかし、今の段階ですでに2時半です。ここから何かをなすというのは非現実的です。結局、この後は寝るしかないというのが最善です。

そばの耳が遠く、また認知機能が弱ってきているため、対抗する方法として筆談を提案していますが、ずっと筆談を繰り返そうというほどのコストを母も祖母も支払えないという現実があります。そこで、このように音声認識を用いて話したいことを文字に起こし、それを読んでもらうという形でコミュニケーションの円滑化を図ることができないかということを最近よく考えています。ある程度スマホを使うなどできる人であれば、文字の入力画面を開き、マイクのボタンを押し、しゃべり始めることで文字を記述できるということを知っていますが、母たちはそうではありません。それができるようになるかどうか、またそれを見やすく、最低限見やすく提示できる形にできるかどうかが課題です。もしもアプリケーションをせめて要件だけでも作れるというならば、マイクボタン、発言、発言内容の記載、文字起こし、ねで表示する文字の大きさ、老眼や老化した人間が見るのに難くない大きさでの表示をディスプレイ上に行えるというのが条件です。例えばこれをAmazon Echo SHOWの上やまたはGoogle Nest HUBの画面上で達成できるならば、かなり家庭内での耳の遠い人間との円滑なやり取りができる可能性が広がるはずです。無論、聞かなくてもいいようなことをマイクに拾われてトラブルになるようなケースも起きるでしょう。しかしそれ以上に、聞こえない人に対してどうにか伝えるために声を大きくしたり、何度も同じことを繰り返したりということで、介助者側の大きな負担になっています。介助者側は認知症の深刻化を不安に思っており、日常の会話が脳の刺激には必要だと思っています。そのため、話したいわけではなくとも話しかけて刺激を与えられたら良いのでは、それが役目なのではと思っています。一方、高齢者側は聞こえないことには慣れており、話したい時には自分を話すだけで相手には聞こえるということを理解しています。その上で、相手の返事が自分に聞こえないことは、自分が無視をされているとまではいかないが、返事がまだ来てないというような素振りで返事の最速をされることがあります。

さらなる問題として、聞こえにくい高齢者は聞くということに対して常に最善の努力を行っているわけではありません。それはもちろん、体調の悪い日に聞こえが悪いだとか、騒がしい場でよく聞こえないとかそういったことも多分に終わります。しかし、家の中で限られた人数の中で話しかけられた時に機嫌が悪かったり、都合の悪い話をされた時に聞こえなかったふりをするのです。いわゆる無視です。そのため、聞こうとしているのにちゃんと聞けない、聞こうとして一部聞けた、聞こうとして全く違う内容を認識した、そしてそのそれぞ

 

もちろんです。文章の続きに句読点を付け加えると以下のようになります。

 

そしてそのそれぞれに対して、内容が都合が悪いので聞かなかったことにした、聞こえなかったことにしたというパターンが追加されます。

人が高齢化するにあたって、少しずつ複雑な処理が苦手になっていくという話を聞いたことがあります。例えば「Aは何々だ」という例文は理解できても、「Aは何々ではない」という例文だと、後ろから就職される「何々ではない」という語句により、状態が否定されるが、その部分を処理しにくくなるというようなことが起きます。そうです、つまり文法的にも複雑なものは、だんだん処理をできなくなっていくのです。話す側はまだ難しい文の構造にも理解を示せるが、それをそのまま伝えても相手に伝えることができない可能性が増えていくのです。今生きている働く若者の世代は、TPOに合わせて態度や言葉遣い、判断を都度考え抜いて生きていますが、そのような複雑な処理は老化とともに難しいこととなっていき、自分の元々持っているような素直な感情や行動が表に出しやすくなるようです。今生きている若者が自分の強引さを反省して控えめに振る舞うということは可能です。しかし、老後に控えめに振る舞うということができるのかどうか、もともとの強引な部分が発言し、その人間性を暴露するのではないか、さながらメッキが剥がれるように。皆が皆そうなのではないだろうが、高齢化に伴う変化は避けられないものです。

文章に句読点を付ける作業はいかがでしたか?他にもお手伝いできることがあれば、お知らせください。🌟